• 自分ノート
みずさきの家

パンフ「みずさきの家」が出来ました。
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水﨑隆司・自分ノート

生まれ、育ったのは山のなか。大工になって、いつもツラつき合わせてきたのは木。木は、山で育ちます。
木とのつき合いは女房よりも長い。毎日毎日、木と向かい合っていると、こいつにもいのちがあると思えてきます。
こうしてくれと木がいっているような気がして、それにうまく応えたと思えたとき、一仕事したと思うんだ。

1952年〜
自分ノート1952年〜
1952年8月4日 周智郡春野町川上に生まれました。
春野町川上は、緑深き山々と清き川のせせらぎに抱かれた、自然が豊かな村です。現在は浜松市と合併しましたが、生まれた当時は周智郡。杉川街道を気田川沿いに登り、川根本町へと続く峠にほど近い場所にあります。
ぼくの少年の日の遊びのフィールドは山に川。そして、スポーツ。なかでも野球。
あの長嶋茂雄さんと同じサードを守る野球少年でした。
1962年〜
自分ノート1962年〜
十代。この世に生まれて十五年で、ぼくは自ら歩むべき道を決めました。
"手に職をつけたい……"。幼いながらも、強い思いが自分を動かしました。それが、見知らぬ世界へ旅立たせる原動力となったのです。
山から町へ、親元から住み込みへ、子どもから一人の職人として。
中学卒業とともに、大工職人を目指す第一歩が始まりました。
師匠は、廣野開治棟梁。この出会いが、自分の『人生の道』を決めました。
1972年〜
自分ノート1972年〜
二十代。片付け仕事に一年、押入れなど見えないところの仕事を二年。
昼間は仕事。夜は定時制高校で勉強。そんな毎日を過ごした十代後半。成人を迎えた二十歳になって初めて、親方から「隆司、やってみろ」と声をかけてもらいました。あのときの興奮は、今でも忘れられません。
最低七年はかかるという"墨付け"を、五年の修行で許されたのです。
仕事は平屋の借家でしたが、御殿を造る気分でした。
1982年〜
自分ノート1982年〜
三十代。二人の建築家との出会いが、ぼくの仕事を押し上げてくれました。袴田昌男さんと、村松篤さんです。
1987年に手がけた天竜川展示場のモデルハウスは、村松さんが弱冠二十八歳という若さで果敢に取り組んだ仕事でした。
微細な指示、膨大な確認事項、尽きることない打ち合わせの日々……。
持たされた大きな携帯電話と寝起き共にしながら、嵐のような毎日でした。
1992年〜
自分ノート1992年〜
四十代。若い衆七〜八人に指示を出しながら、年間十棟の仕事を手がけました。
そんななか、1990年に取り組んだ三ヶ日の別荘の仕事は、深く記憶に残る仕事になりました。設計は袴田さん。
かね勾配(45度)の屋根は、構造、材の配置、加工、組み方など、原寸で墨付けを起こしながらの、非常に難しい作業でした。
"間違いはないだろうか……"。建前の前日、眠れぬ一夜を過ごしました。
2002年〜
自分ノート2002年〜
五十代。2001年6月、川上村出身の十五歳の少年を、一人前の大工に育て上げてくれた親方が、68歳で永眠しました。
大らかで、素朴で、一刻者で、自分の意見を曲げず、木を見ることが何よりも好きな、こだわりの人…… それがぼくの師匠"廣野開治"でした。
師匠とのお別れを経て、一念発起、三十年の教えをもとに独立しました。「株式会社 水﨑建築」を立ち上げ、新たなスタートを切りました。
2008年〜
自分ノート2008年〜
ぼくが尊敬する建築家、吉村順三さんにこんな言葉があります。
「日暮れどき、一軒の家の前を通ったとき、家の中に明るい灯がついて、一家の楽しそうな生活が感じられるとしたら、それが建築家にとっては、もっともうれしいときなのではあるまいか」
この言葉は、立場は違えど、人さまの家をつくる者の共通の思いです。まだまだ未熟で、すべてはこれからだという思いを深くしています。
こうして育ってきた水﨑の考え方は、「水﨑建築の流儀」へ!